変わってしまった世界を歩む――グリーフケアという、喪失に寄り添う営み
昨日まで歩いていた道が、当たり前に見ていた景色が、ある日まったく別のものになる。大切な人やものを失うという経験は、世界のかたちそのものを変えてしまう出来事である。それでも私たちは、その変わってしまった世界を、歩いていかなければならない。本シリーズの最終章として、この「喪失」という、誰にでも訪れる普遍的な体験と、それに寄り添うグリーフケアについて見ていく。
1. 「グリーフ」とは、そもそも何を指すのか
1.1 悲嘆という言葉の、もとの意味
「グリーフ/grief」とはもともと「悲嘆、深い悲しみ」を意味する。グリーフケアは「喪失の悲嘆:大切なものを失くした深い悲しみ」を抱えた方へのケアである。また、グリーフには悲しみだけでなく、大切なものを失くしたことによって生じる後悔や怒り、安堵といった様々な感情や、喪失にともなって生じるプロセスも含まれる。
1.2 死別だけがグリーフではない
喪失の代表的なものは死別だが、様々なかたちで訪れる離別、財産や所有物等の喪失、健康や自尊心といった価値の喪失も、深いグリーフをもたらす。大切なものを喪失するということは「私らしさ」やアイデンティティを失うということでもある。誰にでも訪れるグリーフというスピリチュアルペインへの理解を深めることが、グリーフケアの始まりとなる。
前章で扱ったスピリチュアルペインという概念が、ここでグリーフという、より具体的で誰もが経験しうる形を取って現れてくる。「生きる意味が脅かされる痛み」としてのスピリチュアルペインは、喪失という出来事を通じて、誰の人生にも訪れうるものなのである。
2. グリーフを形づくる6つの喪失
グリーフには様々なものがある。グリーフは「何」を失くすかではない。「あなたにとって大切なもの」を失くすことである。その具体的な例を見ていく。
2.1 大切ないのち
家族、友人、恋人、ペットとの死別や離別である。両親やきょうだい、子どもといった家族を失うこと、また、友人や恋人といった大切な人を失うことは大きな喪失である。死別の場合もあれば、離婚や生き別れ、失恋や仲違いといった離別による喪失もある。死別においても病気や事故によるもの、自死によるものなど、その原因やプロセスは一人ひとり違っている。亡くなった人との関係性によっても、もたらされる感情は様々である。また、人だけでなく、生活をともにしてきたペットを亡くすことも深い喪失をもたらすことがある。
2.2 大切なもの
財産、住居、仕事、記憶(写真、形見など)の喪失である。グリーフはいのちあるものだけではない。家や財産など生きていくために必要なものとそれを築くことは生きがいにつながることも多く、所有物や仕事を失うことは大きな喪失である。また、写真や形見などを失くすことも、そこに結びついた人や記憶の喪失につながることがある。
2.3 身体や健康
病気、怪我、老化、体の一部(四肢、子宮、乳房など)の喪失である。病気による健康の喪失、老化による若さの喪失、中途障害等による機能の喪失、怪我や病気による四肢や器官の喪失など、直接的に自分の身体が体験する種々の喪失は、その後の生活を否応なく変えるという点でも喪失感が大きい。看護や介護を必要とする方々は、何らかのかたちで健康や心身の機能を喪失している状態であることを心に留めておく。
本シリーズでこれまで扱ってきた痛み、呼吸困難、消化器症状といった身体症状のすべてが、実はこの「身体や健康の喪失」というグリーフと地続きのものだったことが、ここであらためて見えてくる。
2.4 環境の変化
転居、転校、災害など、故郷や土地の喪失である。環境の変化もまた、グリーフになり得る。故郷を離れて暮らすこと、転勤・転居なども人によっては大きな喪失となる。例えば転校は子どもにとって新しい環境の獲得であると同時に、これまでの住み慣れた世界の大半を喪失するという、非常に影響の大きい変化である。また、災害等によって慣れた土地や住まいを離れざるを得ない事態に見舞われる経験なども深い喪失感をもたらすことがある。
2.5 役割
親・子、夫・妻、役職・立場(退職・異動・引退など)の喪失である。死別や離別、さらには巣立ちや結婚などにより家族間でそれまで果たしてきた役割を失うことがある。これらは家族間だけにとどまらず社会的な役割や所属するコミュニティの喪失となることも多い。退職や異動、引退や卒業によって役職や立場、肩書などを失うこともまた、所属やコミュニティの喪失、やりがいや生きがいの喪失につながり深いグリーフとなることがある。
2.6 自尊心
自己肯定感、プライバシー、アイデンティティの喪失である。いじめによる自己肯定感の喪失、差別によるアイデンティティの喪失、中傷によるプライバシーの喪失など、大切にしたい価値観が損なわれることもまた、深い喪失感につながる。いずれも「私らしさ」の喪失である。
3. 心と体に起きること:悲嘆反応
3.1 誰にでも起こりうる、正常な反応
こうした、その人にとってかけがえのない大切な人やものを失うことにより心身に起きるのが悲嘆反応である。これは誰にでも起こりうる正常な反応であり、それ自体は特別でも病気でもない。また、これらの反応は全ての人に網羅的に起きるのではなく、それぞれの反応や頻度には個人差がある。評価や尺度をともなう概念ではないため、これが起きるとよくないとか、これを経験しないといけないといった類のものではない。
さらに、これを時系的にとらえ、ショック期(死別直後の時期)、喪失期(故人への思いに深くとらわれる時期)、回復期(喪失に適応し日常を再構築していく時期)と分けることもあるが、悲嘆のプロセスには時間的にも順序的にも個人差があり一律の分類は難しい。「悲嘆には決まった正しい段階がある」という思い込みこそが、しばしばグリーフを抱える人をさらに追い詰めてしまう要因になりうるという点は、覚えておきたい。
3.2 感情的反応:揺れ動く、様々な感情
抑うつや絶望、悲しみや落胆、不安や恐怖、罪悪感や自責の念、怒りや苛立ち、孤独感や思慕の念、ショックや無感覚、安堵感や解放感など、様々な感情的反応である。深い悲しみだけでなく、取り残された絶望感やこの先の人生への不安、自分のせいではないかと罪悪感を覚えたり、もっとできることがあったのではないかと後悔したり、時には他の人を羨んだり妬んだりすることもある。幸せそうな家族の姿を見て憎しみを覚えることもあれば、自死の場合などは長く深い自責の念に駆られることも多い。また、急逝の場合など大切な人を亡くした直後などは、ショックが大きく現実を信じない状態や、感覚が麻痺することがある。介護や看護の長さや亡くなった人との関係性によっては、ホッと安堵したり解放感を味わったりすることもある。いずれも自然で当然の反応である。
安堵や解放感までもが「自然で当然の反応」として位置づけられている点は、特に重要である。長期にわたる介護や看護の末に迎えた死別において、悲しみと同時に安堵を感じることへの罪悪感を抱く人は少なくないが、それもまた悲嘆反応の正常な一部なのである。
3.3 認知的反応:現実を受け止めきれない心
出来事の認知に関する反応である。故人を思うことに没頭したり、今も生きているように感じたり、その亡くなった事実を否認したりする。無力感や絶望感が強くなり、非現実的な感覚に襲われることや、記憶力や集中力が低下することがある。
3.4 行動的反応:体が動く、あるいは動けなくなる
動揺や緊張、落ち着かないなど行動として表れる反応である。疲労感で動けなくなるか、逆に過活動になることもある。故人の死の原因を突き止めようとする探索行動も見られる。涙が止まらなくなったり、泣き叫んだりすることもあれば、友人に会ったり働いたりすることができず社会的なひきこもりの状態に陥ることもある。
3.5 生理的・身体的反応:体にも表れる悲しみ
悲嘆の反応は体にも表れる。食欲不振や睡眠障害をはじめ、病気にかかりやすくなったり、頭痛やめまいなど一見それとは関係ないと思えるような心身症になったりすることも少なくない。子どもなどは言語化できない感情を抱えていることも多く、腹痛など身体症状による訴えが表れやすい。
本シリーズで扱ってきた不眠や抑うつ状態、全身倦怠感といった症状が、ここでもまた、悲嘆というまったく別の文脈のもとで姿を現す。身体症状とは、言葉にならない心の状態が、体を通じて語られたものだと捉え直すこともできるだろう。
3.6 記念日反応:時間が経っても、よみがえる痛み
悲嘆反応のなかには、時間の経過によって表れる記念日反応と呼ばれるものもある。代表的なものは命日反応と呼ばれるものであり、故人の命日が近づくことで様々な記憶や体感がよみがえることで心や体が不安定になったり、大きな感情の揺れに苦しくなったりする。その他にも、誕生日や結婚記念日といった故人との記念日に故人の不在を深く感じることでつらくなったり、夏祭りやクリスマスといった季節のイベントや四季の移り変わりが様々な感情を呼び起こしたりする。そのイベントや季節ならではの匂いや音楽といったものに不意に五感を刺激されることで予期しない反応が引き起こされることもある。
4. 喪失と悲嘆が見せる、特徴的な様相
ここまで、グリーフと悲嘆反応について述べてきたが、喪失や悲嘆のなかには特徴的な性質を持つものもある。ここでは「複雑性悲嘆」「公認されない悲嘆」「予期悲嘆」「曖昧な喪失」という4つの様相を見ていく。
4.1 複雑性悲嘆
悲嘆反応の程度が通常よりも大きいか、長期間に渡って持続する。死別直後に悲嘆反応が抑圧され、何かのきっかけで強い悲嘆反応が表れ複雑化する場合もある。急死や自死、事故死など衝撃の大きい死や、対象が幼子である場合、また、連続して親しい人を亡くす等の状況によることもある。遺された人に精神的な疾患がある場合や、社会的な孤立を感じている場合も悲嘆が複雑化する可能性がある。状況によっては当事者の気持ちや意向、プライバシーに充分配慮した上で精神科医等の専門家につなぐことも重要である。うつ病やアルコール依存症などが疑われる場合にはその治療も視野に入れた関わりが求められる。
4.2 公認されない悲嘆
悲しむ権利を奪われた悲嘆である。何らかの社会規範や常識等の枠組みによって、その悲嘆が公認されない状態を呼ぶ。例えば、亡くしたパートナーとの関係が事実婚や同性婚など、その関係が認められにくいものである場合が該当する。また、流産や死産など周産期における喪失はペリネイタル・ロスと呼ばれるが、周囲からは重い喪失として受け止められず、次を期待される言葉などが不用意に投げかけられるなど、無理解や配慮を欠いた関わりにさらされることも多い。ペットの死についても、人の死と比較してその喪失が軽く扱われやすい傾向がある。中絶や自死のように亡くし方や亡くなり方への見解が分かれるものも、ありのままに悲しむことが難しく、孤独なグリーフとなりやすい。
「悲しんでいい」という社会的な承認が得られないという、この種類の悲嘆の孤立感は特に深刻である。周囲が無自覚に投げかける言葉が、当事者をさらに追い詰めてしまうという構造を、ケアに携わる者は意識しておく必要がある。
4.3 予期悲嘆
死や別れを予期して感じる悲嘆である。病が進行し死を意識せざるを得ない状況において、病者と家族をはじめとした周囲の人々の双方が経験する。家族への予期悲嘆のケアが充分であれば死別後の悲嘆が軽くなるといった言説がよくされるが、予期悲嘆と死別後の悲嘆は分けて考えるべきである。家族や周囲は、かけがえのない大切な人を失うという耐えがたいスピリチュアルペインの只中にある。重要なのは「いまここの辛さ」に思いを寄せることであり、死別後の悲嘆の予防が目的ではないことを心に留める必要がある。
「予期悲嘆のケアをしっかり行えば、死別後の悲しみが軽くなる」という考え方は、一見すると合理的に思えるが、実はこの発想自体が、今この瞬間の辛さを「将来への備え」の手段として扱ってしまう危うさを孕んでいる。予期悲嘆は、それ自体が今まさに経験されている独立した苦しみであり、死別後の悲嘆を軽減するための準備期間として位置づけるべきではない、というこの指摘は重要である。
4.4 曖昧な喪失
喪失が曖昧な状態にあるものである。「さよならのない別れ」と「別れのないさよなら」という二つに大きく分けられる。「さよならのない別れ」は、身体的には不在だが、心理的には存在していると認知されるものである。例えば、失踪や行方不明などがこれにあたる。「別れのないさよなら」は、身体的には存在するが、心理的には不在であると認知されるものである。例えば、認知症や精神疾患の方との関わりがこれにあたる。いずれの場合も、経験する人は長く不確実な状況に置かれ、何度も喪失感を味わうなど、悲嘆が複雑化することも多い。
目の前に本人がいながら、その人らしさがすでに失われているように感じられる——認知症のある家族を介護する人々が経験するこの苦しみに、「別れのないさよなら」という明確な名前が与えられていることは、当事者にとって大きな意味を持つだろう。自分の感じている苦しみが、正当な悲嘆の一形態として認識されているという事実そのものが、孤立感を和らげる力を持つ。
5. 悲しみを前にした時、何ができるのか
5.1 世界のかたちを変えてしまう出来事
グリーフは世界のかたちを変えてしまう出来事である。昨日まで歩いていた道や、当たり前に見ていた景色がまったく別のものになる。それでも私たちは、かたちの変わってしまった世界を歩いていかなければならない。そんな時、周囲は何ができるのか。
5.2 追い越さない、という心構え
「大丈夫?元気出してね」「辛いだろうけど頑張って」など、つい励ましてしまいたくなる。しかし、ごく普通と思われる励ましや気遣いの言葉に深く傷つく遺族は少なくない。大丈夫であるはずはなく、言われるまでもなく懸命に頑張っているのである。遺族の多くは、それらが気遣いの言葉であると知るからこそ、そこで傷ついても曖昧な笑顔や感謝を返すしかなく、心の孤立を深めていく。グリーフに対する専門的なカウンセリングやセラピーの理論も数多くあるが、ここでは隣人としての心構えを述べる。
深い悲しみのなかにある人を前にして、その人の気持ちを勝手に追い越さないことである。声をかけたくなる時、それは誰のための言葉なのか、その人の悲しみや怒りを受け止めきれない自分のために言おうとしているのではないだろうか。もしくは、矢継ぎ早に質問していないだろうか。それは誰が何のために知りたくてする質問なのか。問いに答えが返ってこなくて不安なのは誰なのか。主体はケア者ではなく、悲しみを抱えてそこにいる人である。その人に元気になってほしいと思う「私の気持ち」は横に置き、その人が今味わっているだろう悲しみや混乱の「はかりしれなさ」に思いを寄せる。そこで声をかけられないならば、無理に何かを言う必要はない。ただそこに全力を尽くして「いる」ことである。深い思いやりをもった静かな見守りはいつか届く。その人のありようを評価することや、何かを解決しようとして相手の気持ちを勝手に超えていくことは、グリーフケアにはつながらない。
前章のスピリチュアルケアで語られた「冷たい川の中で、ともに震える」という姿勢が、ここでも同じ形で求められている。何かを言おうとする衝動を手放し、ただ黙って「いる」ことを選ぶ勇気こそが、悲しみに向き合う人への最大の敬意なのだろう。
5.3 信じるということ
グリーフは時として人生を大きく変える衝撃となる。深いスピリチュアルペインのなかで生きるのが辛くなることもあるだろう。それでも生き続ける歩みのなかで、故人との出会い直しや、新たなつながりが見つかることがある。大切な人を失った事実や、悲しみの深さは変わらなくても、変わってしまった世界を新たに生きていく力が、きっとある。レジリエンスとも呼ばれる、その人が備え持つ回復する力や困難を生き抜く力を、自他ともに信じるのである。グリーフに心を寄せ、ありのままを受け入れ、信じて支える。そうしたケアのいとなみを経て、いつか自分自身の力でグリーフを抱えた人生を生きられるようになるといい。
5.4 ケアする人もまた、グリーフを抱えている
グリーフは誰にも訪れる。ケア者たちもまたそれぞれのグリーフを抱えながら歩いている。そういう私だからこそ誰かの悲しみにも心を寄せられる。その思いが他者へのケアへとつながっていく。
この一文は、本シリーズの前章で扱った「ケアする人のケア」というテーマと、見事に呼応している。ケアする者自身もまた、弱さと喪失を抱えた一人の人間である——この自覚こそが、他者の悲しみに真に寄り添うための土台になるのだろう。
6. 悲しみを分かち合う場:遺族会というサポート
6.1 なぜ遺族会が必要とされるのか
グリーフケアの場として遺族会と呼ばれる遺族の集いがある。周囲の何気ない言葉や対応によって孤立し傷ついた心は、なかなか人には明かせないが、同じような経験をしている人と分かち合うことで「ひとりではない」と感じられることがある。互いのグリーフをサポートし合う場としての遺族会について見ていく。
遺族会には参加条件を定めないものもあれば、亡くし方(がん、自死、交通事故、犯罪、過労死など)や亡くした対象(子ども、親、配偶者、きょうだい、ペットなど)に限定しているものもある。病院や葬儀社など運営母体により参加者が限定されるものもある。気持ちを分かち合うものだけでなく、事故等の原因究明を目的にしている場合もある。また、グループの構成からその特徴を次のように分けることもできる。
6.2 自助グループ
セルフヘルプグループとも呼ばれる。同じような経験や問題を抱えている当事者同士が自発的に結びついてグループができている。会の運営は当事者たちだけで行い、当事者でない専門家は含めない。グループが成立するまでの過程で専門家によって傷ついてきた経験を有している場合も少なくない。
6.3 サポートグループ
医師や臨床心理士をはじめとした専門職や、ケアやグリーフ等の専門家や研究者など、当事者ではない人がグループの運営に関わっていたり、ファシリテーターを務めたりしている。病院や葬儀社、行政などが運営母体である場合もこちらになる。
6.4 どちらの形にも共通する、場の条件
いずれの場合も、遺族会では「安心・安全な場」であることが求められる。同じ話を繰り返しても、どんなことを話しても、批評や評価をされずありのままに受け止められる場であること、存分に悲しむことのできる場であることが重要である。参加する人は「誰にも分からない私だけの思い」を話し、かつ、聴くことで「ひとりではない」ことを知る。
グリーフは乗り越えたり克服したりするものではない。その悲しみとともに生きていくこと、亡き人とともに生きていくことである。分かち合い、支え合うことで、いつか、大切なものが失われた世界を「私なりに生きていく」ことができればよい。そのサポートがグリーフケアである。
7. まとめ:喪失とともに生きていく、という道
本シリーズは、身体の痛みから出発し、呼吸困難、消化器症状、全身倦怠感と浮腫、せん妄、不眠と抑うつ状態、意思決定支援、家族ケア、スピリチュアルケアを経て、最後にグリーフケアへとたどり着いた。考えてみれば、このシリーズ全体を貫いていたのは、「何かを失っていく過程に、どう寄り添うか」という、一貫した問いだったのかもしれない。身体の機能を失っていくこと、自律性を失っていくこと、そして最後にいのちそのものを失うこと——これらはすべて、本章で見てきた「喪失」の諸相の、具体的な現れだったのである。
グリーフケアが最終的に示すのは、悲しみは克服すべき敵ではなく、ともに生きていく道連れだという視点である。死別の直後だけでなく、記念日のたびによみがえる痛みも、何年経っても癒えない公認されない悲嘆も、本人がそれを抱えたまま日々を歩んでいくことそのものが、一つの達成なのである。変わってしまった世界を、それでも自分なりに生きていく。そのための静かな伴走こそが、グリーフケアという営みの、変わらない核心なのだろう。
