スピリチュアルケアという、答えのない関わり

スピリチュアルケアには、分かりやすいハウツーが存在しない。小手先のテクニックも通用しない。死を前にして、これまで信じてきた全てが崩れ落ちる時、感じたことのない恐怖に苛まれる時、私たちはそのそばに寄り添うことができるのだろうか。そもそも「寄り添う」とは、一体何を指すのか。この、答えの出ない問いこそが、スピリチュアルケアの出発点になる。本稿では、終末期ケアシリーズの締めくくりとして、この最も捉えどころのない、しかし最も本質的なケアについて考えていく。

1. スピリチュアルケアという言葉の成り立ち

1.1 日本語の「スピリチュアル」が持つ、誤解されやすさ

日本で「スピリチュアル」というと、精神世界的なものを思い浮かべがちである。しかし、ここで扱うスピリチュアルケアの「スピリチュアル」とは、出所を異にした19世紀イギリスに興った「スピリチュアリズム(心霊主義)」とは、系譜が別のものである。

スピリチュアルの語源は「スピリット」であり、スピリットの語源をさらにさかのぼるとラテン語では「Spiritus」となり、風や呼吸、息や生命という意味から「聖霊、魂、精神」という意味にもなっていく。つまりこの言葉は、超常現象やオカルトとは無関係の、「生きていることの根源」を指し示す、もっと古く、もっと普遍的な概念なのである。

1.2 パストラルケアから、ホスピスのトータルペインへ

主に医療的な領域においては、ホスピス・緩和ケアなど、がん末期に代表されるような、死を前にした病者への全人的なケアをスピリチュアルケアないしパストラルケアと呼ぶ。パストラルケアはpastor(牧師)による宗教的ケアがもとであり、その起源も古く、病院でのケアにとどまらないが、現在ではほぼ同義に使われる。

もともと看護師・ソーシャルワーカーだったシシリー・ソンダースは、39歳で医師になり、1967年にイギリスでセントクリストファーホスピスを設立した。ソンダースは、がん末期の患者の苦痛には、単に身体的な疼痛だけでなく、精神的、社会的、スピリチュアルな痛みがあるとして、これを「全人的苦痛/トータルペイン」と表した。これは本シリーズの冒頭、痛みのケアを扱った章でも紹介した概念だが、スピリチュアルケアという視点から見ると、この4つの痛みの枠組みそのものが、ソンダースのホスピス実践から生まれたものだということが分かる。この理念は、その後のホスピス・緩和ケアの基本的な理念となり、ソンダースは近代ホスピスの母と呼ばれている。

1.3 日本における独自の展開

日本では柏木哲夫が1970年代からがん末期の患者のニーズを「精神的必要」「社会的必要」「宗教的必要」と呼んで独自のチームアプローチを始めており、1984年には淀川キリスト教病院に病棟型ホスピスが設立された。1981年には日本最初のホスピスが聖隷三方原病院に開所している。医療の高度化や核家族化により人々の日常から死が遠ざけられていくことへの疑問や問題が提起されるようになるなかで、ホスピス・緩和ケアおよびスピリチュアルケアへの関心も高まっていく。

1.4 WHOが示した、未採択だが影響力のある定義案

1999年にはWHOが健康の定義に「spiritual」と「dynamic」を加え、「健康とは、身体的に、精神的に、スピリチュアルに、社会的に完全に良好な動的状態であり、単に病気でないとか弱っていないということではない。」とする案を総会で提出した。この案は各国の文化的・宗教的背景などを理由として採択には至っていないが、これ以降、スピリチュアルな側面は健康を構成する必須の要素として一層重視されるようになった。採択されなかったという結果以上に、「健康とは何か」という問いにスピリチュアルという軸を持ち込んだこと自体が、その後の医療のあり方に大きな影響を残したと言えるだろう。

1.5 医療の枠を超えて広がる実践の場

現在、スピリチュアルケアは医療・看護の領域ではホスピス・緩和ケアはもとより、高齢者医療や救急医療、在宅医療などにおいてもその実践が広がりつつある。また、福祉領域においても、認知症ケアや高齢者の看取りにおいて、さらには障がいや孤立、虐待や引きこもりなど様々な困難を抱える人々へのケアとしても実践が期待されている。2020年に日本ソーシャルワーカー連盟代表者会議にて承認された「ソーシャルワーカーの倫理綱領」には、その原理として「VI(全人的存在)ソーシャルワーカーは,すべての人々を生物的、心理的、社会的、文化的、スピリチュアルな側面からなる全人的な存在として認識する。」という条文が設けられている。終末期医療という一領域から出発した概念が、今や対人援助のあらゆる場面に根を広げつつあることが、この条文からも読み取れる。

2. 「生きる意味」が脅かされる痛み:スピリチュアルペイン

2.1 トータルペインを構成する、4つ目のペイン

スピリチュアルペインは、ソンダースが唱えた「全人的苦痛/トータルペイン」を構成する4つのペインのうちのひとつである。4つのペインとは「身体的ペイン」「精神的ペイン」「社会的ペイン」「スピリチュアルペイン」である。

身体的ペインは文字通り身体に生じる疼痛や苦痛である。高熱や怠さ、食物がのどを通らない苦しさ、思うように体が動かない苦しさなども挙げられる。精神的ペインは、病状に対する不安や苛立ち、うつ状態などである。社会的ペインは、例えば病気によって離職や退職を経験することによる苦痛や、それによって生じる経済的支障、さらには家庭内の関係性が崩れることなど社会に関わる痛みを指す。

2.2 生きることそのものと向き合う苦しみ

さらに、これら3つに加えてスピリチュアルペインがある。予期せぬ病に襲われ、体も心も社会性も傷ついた上でさらに「死」を意識せざるを得ない時、生きる目的や意味、これまでの価値観が大きく揺らぐ。死んだらどうなるのか、何のために生きてきたのか、自分の存在意義に対する実存的な問いに直面する。生きていることそのものが苦しく、また死ぬことを思うのも苦しい、自分ひとりではとても抱えきれないような痛み。こうした、生きることの本質と向き合う苦しさがスピリチュアルペインである。

身体の痛みのように局在を指さすことができず、精神的な不安のように感情として名付けることもできない。「自分という存在そのものが、根底から揺らいでいる」という、このつかみどころのなさこそが、スピリチュアルペインの最大の特徴だと言える。

2.3 窪寺理論:4つの喪失と不安

スピリチュアルペインの定義としては、窪寺の「人生を支えていた生きる意味や目的が、死や病の接近によって脅かされて経験する、全存在的苦痛」や、村田の「自己の存在と意味の消失から生じる苦痛」がよく引用される。

窪寺は、スピリチュアルペインの内容として、①「わたし」の生きる意味・目的・価値の喪失、②苦痛の意味を問う苦しみ、③死後への不安、④「わたし」の悔い・罪責感、という4つを挙げる。生きがいの喪失、苦しみそのものへの問い、死後という未知への恐れ、そして過去を振り返っての後悔や自責——この4つの軸は、臨床の現場でスピリチュアルペインを言語化するための、具体的な手がかりになる。

2.4 村田理論:時間・関係・自律という3つの次元

村田の場合はスピリチュアルペインについて、時間存在・関係存在・自律存在という3つの次元から構造化する。時間存在のペインは、死の接近により将来を喪失することで、現在の生を無意味に感じてしまう痛みである。関係存在のペインは、それまで築いてきた人間関係が崩れ、支えを失い孤独に苛まれる痛みである。自律性のペインは、病気の進行とともに暮らしの自律性が失われ、自己を無用で迷惑な存在と感じる痛みである。

この3つの軸をもとに患者の語りを時間性・関係性・自律のいずれに該当するかをアセスメントから複合的に類別し、そこに対応するコミュニケーションによりそれぞれのマイナスにプラスの回復を試みていく。医療や看護の領域では、この村田理論をもとにしたスピリチュアルケア実践が比較的広く採用されている。窪寺理論が痛みの「内容」を4つに分けるのに対し、村田理論は痛みの「構造」を3つの軸で捉えるという違いがあり、両者は補完的な関係にあると見ることもできる。

3. 「生きづらさ」という、もう一つのスピリチュアルペイン

3.1 死を前にした人だけの痛みではない

日本では、主にがん末期の病者に対するケアとしてスピリチュアルケアが導入されてきたこともあり、スピリチュアルペインについても身体的な死を前にして感じるものと理解されることが多い。しかし、死生の意味や価値を見失うような危機に陥るのは自分の死の前だけに限らない。病者のそばにいる家族や周囲の人にもまた、それぞれの苦悩がありスピリチュアルペインがある。ケアにおいては、それらの人々を副次的な存在として考えるのではなく、それぞれの辛さに個別で目を向けていく必要がある。

本シリーズの前章で家族ケアを扱ったが、そこで描かれた家族の様々な情緒反応——衝撃、予期悲嘆、無力さ、不確かさへの没入——は、まさに家族自身のスピリチュアルペインの表れとして読み直すこともできるだろう。

3.2 生きづらさを抱えるすべての人へ

また、大きな病気や怪我だけでなく、貧困や孤立、障がいや差別、虐待や引きこもりといった生きづらさを抱えた人々のなかにも、いまを生きる辛さや孤独、未来の見えない不安や絶望といった実存的な苦しみや痛みがある。近年ではこうした社会福祉的な課題への関心から「スピリチュアリティに敏感なソーシャルワーク(Spiritually-Sensitive-Social-Work)」も注目されつつある。

3.3 ストレングスとエンパワメントという視点

困難を抱えながら「それでも生きていく」ためには、その人自身が本来的に持っている力や強み(ストレングス)に気づき、自分の力で生きる力を培っていけるようにするエンパワメントの視点が欠かせない。痛みそのものを取り除くことだけでなく、その人がもともと持っている力に光を当て、引き出していくという、もう一つのアプローチがここにある。

4. スピリチュアルケアという、いとなみの中身

4.1 2つの視点:ペインへのケアと、ストレングスへのケア

スピリチュアルケアには、スピリチュアルペインのケアという視点と、スピリチュアリティを軸にしたストレングスとエンパワメントという視点がある。スピリチュアリティの定義もさまざまであり、例えば藤井は「人間存在に意味を与える根源的領域であり、同時に、人がその意味を見出していくために希求する、自己、他者、人間を超えるものとの関係性、または機能と経験」としている。

スピリチュアリティとは、人に「生きること」への意味と、超越的存在を含む自他との関係性によって「生かされている」ことを感じさせるものである。このように「意味」と「関係性」に支えられた「人を生かすつながり」としてのスピリチュアリティが、病気や死、障がいや貧困などによって強く脅かされた時に感じる「いのちの痛み」がスピリチュアルペインである。そこからの回復には、スピリチュアルペインへの手当てと痛みのケアに加え、その人自身の力で生を捉え直し、生きる一歩を踏み出していけるようになることが必要である。強い痛みを抱えたままでは歩けず、痛みが取れても歩き方が分からなければまた転んでしまう。スピリチュアルケアは、安らかに死ぬためのケアではない。今を生き、明日を生きることを支えるケアである。

この最後の一文——「安らかに死ぬためのケアではなく、今を生き、明日を生きることを支えるケア」——は、スピリチュアルケアという概念の本質を、最も端的に言い当てていると言えるだろう。

5. 聴くこと、寄り添うこと、つながること

5.1 聴くということ

「傾聴」はケアの基本であり要である。傾聴は情報収集でもアセスメントでもない。治療のために必要な情報を聞き出す手段でもなければ、医療チームが望む方向へ促す機会でもない。ケア者が仕事や役割を超えたひとりの人として、全身全霊を傾けて心のうちを聴こうとするのが傾聴である。そのためには、聴き手が自分自身を素直に開き、相手のありのままを尊重して受け入れることが重要である。解決のできない悩み、取り去れない苦しみ、理不尽な思い、耐えがたい嘆き、それらを否定も評価もせずに、他人事としてではなく自分事として聴く。他人を100%理解することなどできないことを承知しながら、それでも理解しようと全身を傾けて聴く。誰でもよいわけではない。ケア者であるあなた自身がその人の前で自分を真摯に投げ出して初めて、相手の方も心の内を明かせるのである。相槌や反射、質問や明確化といった応答の技術は、そのサポートにすぎない。

「聴く」ためには「待つ」ことが重要である。こちらからの問いに対して、すぐ応答が返ってくるとは限らない。返事がないからといって次々と質問を重ねるのは「聴く」ではない。急いでいるのはケア者であるあなたであり、返事がほしいのもあなたである。待ちきれずに次の質問をしてしまいそうな時は、心のなかでゆっくり10数える。情報ではなく、その人自身を聴くのである。

この「待つ」という行為の難しさは、本シリーズで何度も触れてきた認知負荷やコミュニケーションの技術とは、まったく異なる種類の難しさである。技術として習得するものではなく、むしろ自分自身の「急ぎたい」という衝動と向き合い続ける、終わりのない実践なのだと言えるだろう。

5.2 寄り添い

私たちはよく「寄り添う」という言い方をする。スピリチュアルケアにおいてもこの言葉は多用される。しかし寄り添うことは言うほど簡単ではない。体が寄り添っているのか、心が寄り添っているのか。私のなかの何がどのようにして、誰の何に寄り添っているのか。私たちひとりひとりが常に問い直す必要がある。

スピリチュアルケアとは、「冷たい川の中」で寒いと震える人のそばへ行き、その冷たさをともに感じ震えることである。川岸に立って助けを呼ぶ人や、手を伸ばして引っ張ろうとする人ではなく、冷たい水のなかに入ってそのそばに立つ人である。途中で倒れずに川の中を進めるか、その冷たさに耐えられるか、無力なままそこに留まり続けることができるか、寄り添うには勇気も覚悟も求められる。ケア者自身の価値観や常識を横に置いて、目先の評価や解決を求めることなく、ただその人のそばに「いる」ということである。

「川岸から助けを呼ぶ」のでも「手を引っ張って引き上げる」のでもなく、「冷たい水の中に一緒に入る」という、この比喩が描き出すのは、問題を解決しようとする姿勢そのものを手放すことの難しさである。ケアに携わる者にとって、「何かをして助けたい」という衝動は自然なものだが、スピリチュアルケアが求めるのは、その衝動を脇に置いて、ただ無力なまま、そこに「いる」という、一見すると最も受動的でありながら、実は最も覚悟を要する関わり方なのである。

5.3 つながり

人が生きていくには多くのつながりが必要である。私自身の心と体、内的な自己とのつながり。家族や友人、私を取り巻く多くの人や社会とのつながり。家や街、海や空、大地や宇宙といった自然や環境とのつながり。祖先や子孫、大切に想う亡き人などこの世にないいのちとのつながり。神仏など、人智を超えた超越的なものとのつながり。

本気で相手に寄り添い、その存在に耳を傾け、ありのままを受け止めていくことで、忘れていたつながりや、知らずにいたつながりに気づく。「人を生かすつながり」としてのスピリチュアリティが傷つき、深い痛みを抱えながら生きる人のそばに、あなたがいること。それが新たなつながりになる。それが強みになり、その人自身がいのちとつながる力になる。そうしてその人が自分の生きる力を見出していく道のりに私たちは伴走する。

自己とのつながり、他者とのつながり、自然とのつながり、亡き人とのつながり、そして超越的なものとのつながり——この幅広い「つながり」の捉え方は、スピリチュアルケアが特定の宗教や信仰体系に限定されない、普遍的な実践であることを示している。

6. ケアする人のケア

6.1 ケアする側もまた、痛みを抱えた一人の人間である

スピリチュアルケアを実践しようとする人には、対象となる方のスピリチュアルペインを受け取りながら、その重さに耐えるだけの人間力が必要である。しかし、ケアをする私たちもまた弱さを備え、スピリチュアルペインを抱えた一人の人である。この前提を見落とすことは、ケアする側自身を危険にさらすことになる。

6.2 共感疲労というリスク

看護や介護など、相手への気遣いや配慮などが常に求められる感情労働においては、私たち自身の内面にもさまざまな感情の動きが起こり、それが心配事やストレスとなることがある。時には相手に共感し深く関わることで、感情的に疲弊してしまう「共感疲労」や、他者が体験した出来事に二次的に曝されることでもたらされる「二次的外傷性ストレス障害」が起こることもある。共感性そのものはケアする人にとって必要かつ重要な特性だが、それにより著しく消耗したりバーンアウトしたりすることは回避しなくてはならない。

この共感疲労という概念は、本シリーズの早い段階、ケアする人の情動労働を扱った章でも触れたが、スピリチュアルケアという、特に深く相手の実存に関わる営みにおいては、このリスクがいっそう切実な形で現れると言えるだろう。

6.3 セルフケアとピアサポート

全人的なケアへの意識が高い人ほど、病棟や組織との間で葛藤やジレンマを抱えやすい。また、相手の辛さや悲しさに大きく心を揺らすことで普段の生活にも強い影響を受けやすい。ケアに熱心で、相手に全てを注ぎがちな人ほど、自分に目を向けるのが苦手である。まずは、そのことを自覚する必要がある。私たちは決して強くない。その上で、自分の傾向を知ることである。何が辛いのか、何に最も心が揺れるのか、感じやすいのは怒りなのか、悲しみなのか、やりきれなさなのか。私自身はどんな生きづらさやスピリチュアルペインを抱えているのか。にもかかわらず、この仕事を続けたいのは何故なのか、私の強みや支えは何なのか。ケアに入る時も、今日の心と体のコンディションはどうなのか、自分の在りように目を向けてみる。私を疎かにしていないか、確かに「いまここ」にいるか、自分自身への厳しくも優しいまなざしがセルフケアにつながる。

この一連の問いかけは、ケアする側自身に対して、本シリーズで繰り返し扱ってきたアセスメントの手法——痛みのアセスメント、全身倦怠感のアセスメント、抑うつのアセスメント——を、そのままケア提供者自身へと向け直したものだと見ることができる。他者を理解するために培ってきた視点を、自分自身にも注ぐという発想である。

また、ケアへの思いが強い人は、往々にして孤独である。職場やコミュニティにおける無理解に傷ついたり苦しんだりすることも少なくない。ケアへの思いが、効率や問題解決とは対極にあるほど、孤独感も強まる。あきらめず、投げ出さずに質の高い実践を継続していくには、仲間とのつながりが支えになることもあるだろう。時には職場や領域を超えたつながりが支えになることもあるだろう。私たち自身もまた、困難や喜びを分かちあうことで「ひとりではない」ことを知り、明日へと踏み出していけるのである。

7. まとめ:答えのない関わりを、それでも続ける理由

スピリチュアルケアには、分かりやすいマニュアルも、効果を保証するテクニックも存在しない。冒頭で述べたこの事実は、本稿を通じて見てきたように、欠陥ではなく、この営みの本質そのものである。生きる意味を問う苦しみに、既製の答えを差し出すことはできない。できるのは、その人のそばで、ともに震えることだけである。

本シリーズは、痛みの治療から始まり、呼吸困難、消化器症状、全身倦怠感と浮腫、せん妄、不眠と抑うつ状態、意思決定支援、家族ケア、そして最後にこのスピリチュアルケアへとたどり着いた。身体の痛みから、心の痛み、関係の痛み、そして存在そのものの痛みへと、扱う対象は少しずつ深く、少しずつ捉えにくいものへと移ってきた。しかし、どの章にも共通して流れていたのは、「目の前のこの人に、今、何をしてあげられるか」という、変わらない問いだったはずである。

スピリチュアルケアが教えてくれるのは、その問いへの最終的な答えが、「何かをすること」ではなく、「ただ、そこにいること」である場合もあるという事実だ。冷たい川の中で震える人のそばに立ち、その冷たさをともに感じること。そして、ケアする自分自身もまた、同じように弱さと痛みを抱えた一人の人間であることを忘れないこと。この2つを心に留めながら、終末期ケアに携わるすべての人が、明日もまた、誰かのそばに立ち続けていけることを願ってやまない。